芸人飛行士の走り書き

マサチューセッツの心があるから 誰にも負けない もう迷わない

「たったひとつの冴えたやり方」を読んだSF初心者の俺

SF古典の小説「たったひとつの冴えたやり方」を最近読んだ。これが面白い。

特に、コーティー・キャスとシルのやりとりがいい。

コ―ティーは宇宙を旅したばかりの女の子。あるとき漂流船を発見する。そこに乗り込んだのが事件のキッカケになる。うっかり寄生生物シルに寄生される。シルは友好的でちょっとお茶目だった。まあ二人で旅するのも悪くねーな。コーティはそう言って旅に楽しみを見いだす。けど、それが人類存亡をかけた大事件に繋がるというお話。

終盤、シル種族はその寄生相手を殺してしまうことが判明。そうして種子を飛ばして繁殖するというのだ。シル種族はコントロールを学んで安易に人を殺さない。ただ、当のシルはそれをまだ学んでなかった。コーティを殺したくないシル。「私はあなたを殺してしてまで生きていたくありません!おおお!おおー!」とコ―ティーの口を使ってシルは叫ぶ。めちゃくちゃシリアスな場面。なのにシルの誠実で茶目っ気のあるしゃべり方のせいでユーモアを感じさせる。シリアスなのにユーモアもあって読んでるこっちの感情がグチャグチャになって心にツララがぶっささる。

シルの生殖本能がコーティの身体を不自由にしていく。抗おうとして抗えないシルの様子が読んでて苦しくなる。シルはコーティに何度も謝る。コーティは言う。アンタは私を殺したくないんでしょ?でもこれって仕方ないんでしょ。アンタのせいじゃないわよ。ねえ、謝るのやめてくれる?アンタのせいじゃないんだってば。しょうがないんでしょ。私はあなたのことを恨んだりしてないよ。

ビースターズってここから話キテるんだろうか。それとも大槻ケンジのモモもここから?とかいろんな事を考えちゃったな。そしてコ―ティーはある大きな決断をする。めっちゃいい話だった。

頑張らないを頑張る

ひとつのテーマでものを書き続けられる人がいる。すごいと思う。俺にはできない。

好きなものならできるでしょ。そうかもしれない。俺にはできない。マグマのような粘り気のあるものが必要だ。気合いとは違う。好きとも違う。自分が息を吐くようにできるもの。そうじゃないとシコシコと同じテーマでブログなんて書けないだろう。頑張ればできるかもしれない。でも頑張った瞬間からそれは頑張らないと書けないものになる。健康悪い。

頑張らないを頑張る。それをしないといけないなと思う。人はウッカリ頑張ってしまうからだ。頑張らないように頑張らないように。頑張った後でもっと頑張らないといけない。そんなの嫌だ。

頑張らなくてもいいものを見つけなくちゃいけないなと思う。

米津玄師は戦場カメラマンになったらしい

いつから音楽番組を観なくなった。音楽を苦手になってない。俺はもう流行りがわからない。うっせえわ!がネットをざわつかせた時。てっきり藤本タツキツイッターブチギレたのかと思ったくらいだ。

最近になって米津玄師が気になってきた。ツイキャスの中でコメントがあった。米津玄師の新曲はいいぞ。へえー。いや、あいつの歌は反戦歌なんだよ。「エッエェー!ハンセンカ!?」

いつから米津玄師は戦場カメラマンになった。時の流れは激しい。容赦ない。目を離した隙にファイナルファンタジー16まで出ている。ジャンプのマンガが次の週は「いままでありがとうございました」になるのはザラだしな。

彼の新曲は最高傑作!とネットの評判ぽかった。ネット調査兵団の俺。自由の翼広げまくった成果だ。とはいえ彼の曲はマスメディアで話題になってない。再生数はある。なのになぜ。俺の耳は「ラヴィットはじまりまーす」しかない。大槻ケンジはかつてこう言った。古参ファン、捨てても欲しい、タイアップ。昔からそうなのか。ファン以外の耳には届かないのは昔も同じか。

米津玄師の新曲がどこ辺りがよかったか。反戦歌ってまじ。詳しい人がいたら、あと優しい人がいたらでいい。俺にこっそり教えてください。

少女漫画オンチが姫ちゃんのリボンを読んだ結果…

少女マンガを意識し始めたのは遅い。週7回くらいで豆パンを食べていたとき。仲のよかった友人が「君に届け」を学校に持って来ていた。いまならウーバーイーツのキャッチコピーみたいだ。そこに出てくる風早くん。この男イケイケじゃない!僕はすこぶる感動したのだった。

そんな少女マンガ音痴。最近『姫ちゃんのリボン』を読んだ。びっくりするほど面白い。特に姫子のためにエリカが自分の長髪を切るシーン。まったく躊躇のない彼女。『たったひとつの冴えたやり方』のシルみたいに「おおお!!!おお!!」と僕はブックオフで唸ってしまった。

そして、いわずもがな、キャラクターが可愛い。むちゃくちゃ可愛い。これは絶対に流行るぞ!!姫ちゃんのリボンはいいところだ!早くみんな帰ってこーい!

妙に感動してしまった。姫ちゃんが三年後の未来へ行くエピソード。彼女が自分と大地の仲がどうなっているか知りに行く。すると三年後の自分と大地にバッタリ。二人は付き合っているような付き合ってもいないような。エエー!?どうなっっちゃてるの?と聞こうとする姫ちゃん。

大地「未来を知らない方が面白いだろ」

僕も基本的には未来を知りたい。でも大地くんが言うなら、そうだよね。

批評ができなくなったのは全てが個性になったから

映画の年間ベストを決めたら死ぬ。

ツイッターでこの時期流行る。映画アカたちが年間ベスト10を書きだす。この行為が私は大好きだ。大好きなのにここ数年なんだかなあと思っている。自分でもよく分からなない。もちろん、自己顕示欲がすさまじい感じが苦手。あとは映画好きが持ってる映画を観てる俺すげえっていう特権意識が苦手。金属バットで殴り倒してやりたい。でもそれだけじゃない。

最近分かった。立川談志が生前こう言っていたらしい。「落語はもう笑いでもなければ技術でもないし芸でもない。落語は個性だ。」

私のずっと感じてきた違和感。それに対する回答はこれだった。

観てきた映画を並べてベストを決める。それやって何なの?と思ってきた。意味なんてないのではないか。分かった。どれが優れているのかを順位付けしてももう個人の個性でしかないのだ。

最近は批評ってものが存在できなくなってる感じがしていた。それをしたところで、好きな人は好きなんだから。そう思っていた。じゃあ、昔は批評が力を持ってて、今は批評が力を持てない。それは何でなん?と感じてきた理由っていうのがよく分からないまま棚上げ状態だった。

簡単な話だった。批評が機能するのは「正しさ」がどこかにあると皆が思っているからだ。でも今の時代はもう正しさなんてない。好きなものは好きでいいし。正しいも間違いもない。すべては「個性」でしかない。受け手が思ったらもうそれでいい。批評が野暮になった。もしくは悪口をただ言っているように見えるのはそういう事だろう。

私もそう感じる。批評っぽい事を言ってるんだけど悪い部分をただ突っついてるだけに見えてしまっていた。私自身がそう思っている限り、やはり私自身も批評的なことを言えなくなっていた。